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私の体験例と男女共同参画への期待

MD研究者育成プログラム室・分子生物学
助教 小山-本田郁子

私は2005年に名古屋大学で博士号(理学)を取得し、2012年にMD研究者育成プログラム室助教に着任しました。絶滅危惧されている基礎医学研究者の育成を目的として医学部生の研究活動を支援する傍ら、分子生物学分野でオートファジーの研究をしています。
既に掲載されている8名の先生方のエッセイを拝読し、私自身が大いに励まされました。大変恐縮ですが、私の一経験例と男女共同参画への期待をコラムに加えさせていただきます。

大学院・ポスドク時代の恩師、楠見明弘教授(京大・OIST)のアドバイスは「結婚はいつでもいいけれど、子供は独立してラボを持ってからがええよ。だから女性は早く出世しなさい。」でした。院生の時に東京—名古屋の別居で結婚し、学位取得と同時に京都で同居を開始しました。その後8年の間に、両親のがん罹患と看取り、出産というプライベートの大きな出来事が次々に起こりました。仕事をしながら家族の生き死に直面し、思うようにいかないことはたくさんあること、そのような中でもよりよい道を一つ一つ選択し、結果を引き受けながら前に進んでいくことを学びました。
特に出産後数年のドタバタはひどかったのです。妊娠がわかったとき教授に報告すると、「そうか。生まれた後、君、たぶん仕事できへんで。生まれるまでしっかり頑張らんとあかん。」幸い妊娠は順調で、無理なく陣痛の訪れる日までラボに通いました。保育園の中途入所がかない、産後4か月で職場復帰でき、なんとか仕事ができる、と思ったのが甘かった。息子は3週間おきに発熱し1週間保育園を休むサイクル、おまけに90%私に移る、これが2歳前まで続きました。教授の予言通り(!)研究はちっとも進みません。1回目のポスドク期間が残り2年になったとき、教授より「君、次の職はなにがなんでも学振をとったほうがいい。」と声がけがありました。申請書を丁寧に添削していただき、幸い日本学術振興会特別研究員RPDに採用されました。その直後に夫が東京転勤になり、当時医科歯科大の水島昇教授に受け入れていだだいて、家族一緒に異動することができました。
こうして恩師に励まされチャンスを与えられ、同僚に助けられながら乳児〜幼児期を乗り切ったところです。「キャリアを先に」を実現しないまま研究ペースを落としたので遅れはありますが、大学院生時代から出産前まで約10年を研究漬けで過ごしたことが大きな貯金になっていたと実感します。若いうちにプロへの修行に没頭するのはとても大事ですね。
今は少しずつ研究時間が増え、研究がますます面白くなっており、毎日が充実しています。女性ロールモデルが少ないのが心細くはありますが、自分なりのキャリア開拓の冒険をしている気分で、心明るく進んでいきたいです。

出産を機に初めて「男女共同参画」を自分の事として考え、気づいたことがあります。推進には子育てや介護のインフラを整備することは必須、それに加えて、男性を含めみんなの働き方とその意識の改革が難題のようです。少子化対策&女性活用が叫ばれていますが、「産めよ育てよ働けよ」では女性はパンクしてしまいます。日本は今、欧米が20年前にたどった道の過渡期にあるので、女性にとっては踏ん張り時。近いうちにきっと男性女性が共に「育てよ働けよ」が自然に行われるような、本当の男女共同参画社会になっていくはずです。私の夫は数年かけて家事育児のスキルを上げ、そのおかげで私は海外の学会にも行きやすくなりました。それでも会社員の夫が家族の都合で何日も残業をしなかったり休暇をとるのは、私がする以上に大変そうです。医学部の場合はいっそう簡単ではないのかもしれません。しかし、先日のマギル大の高野先生のお話を聞くと、決して不可能ではないと思えます。このたび医学系研究科・医学部男女共同参画委員会委員の機会を与えられましたので、微力ではありますが、よりよい道を探っていこうと思っております。

(2016年2月)

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